内陸と陸前高田市を結ぶ国道340号と343号が、ちょうど交差する場所にある竹駒町。震災後は滝の里地区を中心にスーパーや商店などが立ち並び、車の往来がずいぶんと増えている。そんな町場のすぐ横、大船渡線の鉄路があった場所の南側に、わずかではあるが田んぼ広がっていた。今年の春、3年ぶりに米づくりが再開された田んぼだ。
「ガレキを撤去して表土をはいで、塩分除去をして。そしたら黒土がほとんどなくなって、代掻きをしても足が抜けないほど硬くなった。植え直しを何度もしましたが、ここからがスタート。自分らふたりでやっていける経営体制にもっていこうと思っています」。
そう話す佐々木輝昭さんの横で、妻の友紀さんが微笑んでいる。ふたりは今年2月に入籍し、輝昭さんは市内の木材会社を退職して4月から農業に復帰した。まさに全てが新体制。祖父の孝人さんから野菜づくりの教えを請いつつ、生産者としての再スタートに挑む。
佐々木家はキュウリを中心に小菊やネギ、夏野菜を生産してきた。中でも孝人さんはキュウリ栽培のベテランで、輝昭さんは23歳で就農して以来二人三脚で仕事を覚えてきた。トラクターなどのオペレーティング、試験的に導入した促成アスパラガスの栽培など、祖父から任せられることも増えてきた就農3年目の2011年、あの東日本大震災が発生。消防団員の輝昭さんは畑から自宅へ戻り、気仙川の水門を閉めに仲間3人とポンプ車で向かった。
「その時に、気仙川を遡る津波の第一波を見たんです。見る見るうちに下流から水が溢れ出して道が塞がれ、ポンプ車を捨てて走って逃げるしかなくなった。高台へ逃げる途中、後ろを振り返ったら黒い水が押し寄せて来るのが見えました」。
大津波は、市内の事業所に勤めていた輝昭さんの父の命を奪った。竹駒町の自宅も1階が水没し、家の前に並んでいたキュウリのハウスも、大船渡線の脇の田んぼや畑も跡形もなく流された。佐々木家も避難所暮らしや親戚の家での間借りを余儀なくされ、輝昭さんは生活のため木材会社に勤めることになった。「給料はもらえるけど、何かが違う。早く野菜が作りたいと思っても、畑にはガレキが山積みで…焦りはありました」。だが輝昭さん以上に、祖父の孝人さんはショックを受けていたという。「明らかに弱気になっていて、就職して好きにやれなんて言う。諦めるのはまだ早いんじゃないか?そう、祖父には言いました」。
混沌の中、輝昭さんは少しずつ畑の片付けを始め、自宅前にビニールハウス1棟を自力で建てた。そしてJAや農業関係者の訪問や支援が始まると、孝人さんにも変化が起きた。
「祖父が『また農業やるべ!』と言ってくれたんです。それが、何より嬉しかった」。
2012年3月には補助金を利用して新たなハウスを建設、近隣の土木会社の協力も得ながら田と畑のガレキ撤去も進められた。そして今年春、輝昭さんは2年ぶりに米そして野菜づくりを開始。露地とハウスのキュウリのほか、耐暑性の強いダイコンの栽培なども始めた。「夏ダイコンは祖父のアイデア。キュウリの管理も『これはまだ譲れない』って祖父がやってます。今でも作業に迷うと、祖父が的確に教えてくれる。昔から『じいちゃんはすごい』と思ってたけど、まだまだかないません」。それでも、機械操作など孝人さんから頼まれることは増えており、収穫と出荷は輝昭さんの仕事だ。それを支える友紀さんは「覚えることがいっぱいで」と笑うが、「いろいろ任せられるようになったし、何より来てくれたことが嬉しい」と輝昭さん。パートナーへの愛と信頼感が、眼差しや言葉の端々にまでにじむ。
再開1年目の田と畑は、津波による土壌の生理的変化に加え、日照や降雨などの気候変動にも悩まされた。それでも輝昭さんは農業が再開できたことを喜ぶ。祖父の孝人さんも最近は大きな声で笑うようになったという。元気を取り戻しつつあることの証しだ。
「ここ竹駒では震災で機械を流された人もいるし、高齢化で農業をやめる人もいる。そういう畑も利用して、通年野菜を供給できるような農業経営を目指していこうと思います」。
輝昭さんの描く将来ビジョン。それは陸前高田市の農業復興そのものへと通じている。
(取材日/平成25年7月2日、取材・撮影/フリーライター 井上宏美)