作文部門
一般社団法人家の光協会北海道東北普及文化局長賞
氏 名 学校名・学年 作品名 該当JA
藤田 若葉 北上市立江釣子中学校3年 「お米が教えてくれた平和」 JAいわて花巻

お米が教えてくれた平和

藤田 若葉
北上市立江釣子中学校3年

 私の祖母は八十八歳だ。病気をして体が弱くなってしまって外に出たがらなくなった。けれども、体調が良い時をみて、ドライブに誘うと喜んで一緒に出かけてくれる。ドライブといっても近所の風景を見て回るだけだが祖母は季節の何気ない変化も楽しそうにしている。特に田んぼの様子を見るのが好きで、
「もう代かきしてるのか!早いなあ。」
「苗がおがってきれいだなあ。」
と、田んぼの風景の移り変わりをうれしそうに眺めている。そんな祖母が、今年は七月の長雨の影響で米の作柄が良くないかもしれないというニュースを見て、
「困ったなあ。米がとれなかったら、大変だあ。」
と、まるで自分の田んぼのように心配していて、私は祖母がどうしてそこまで田んぼのことが気になるのだろうと少し不思議に感じていた。そして、祖母から戦争の頃の話を聞いて、気持ちがなんとなく分かった気がした。
「ばあちゃんが小学生の頃、日本は戦争中で生活がとても大変だったんだよ。日常の生活の品物もなくて困ったけど何より食べるものがなくて本当につらかった。」
「浜で作った塩を持って遠く買い出しに行ったもんだ。その塩とお米を交換してもらったりしたけれど、周りにはせっかく手に入れた食べ物を駅で憲兵さんに没収されて泣いている人もいたんだよ。」
 祖母は県北の久慈市の出身だが、遠く秋田県の横手まで祖母のおじいちゃんと汽車を乗り継いで買い出しに行ったそうだ。大人が一緒とはいえ、小学生の子どもがそんな遠くまで食べ物の買い出しの手伝いをしていたなんて私は胸が痛くなった。お米を手に入れるのはとても難しく、大晦日など限られた時しか家族で白いご飯を食べることは無かったそうだ。祖母は食べ物に困った頃の事が心のどこかに今でも残っているから田んぼの実りがとても気になるのだろう。
 私は今、白いご飯を当たり前のように食べている。品種改良されたとてもおいしいお米が普通に手に入る時代に生きている。戦争で食料不足だった時代から、今のような食べ物に困らない時代になれたのは、戦争を乗り越えて農地を耕し、災害にみまわれながらも努力と知恵で一生懸命に戦後の農業を支えてくれた先人たちがいたおかげだと思う。こうした中、日本から世界に目を向けてみると、今も戦争や紛争、飢きんなどで食べ物に困り、苦しんでいる人たちはまだまだ沢山いる。私たちの今の生活が当たり前ではない、ということを皆が知っておかなければならないと思う。
 昨年十二月、パキスタンとアフガニスタンで医療、水源の確保、農業支援の活動に尽力されてきた医師の中村哲さんが銃撃を受けて亡くなられた。中村さんはアフガニスタンの現状を見て「人々が三度の食事をとれて、家族と共に生活できるようにしたい。そのためには百の診療所より一本の用水路が必要だ。」といい、重機を操り、用水路を作りつづけた。私は中村さんのことを知り、食べることを安定することで平和を生み、平和が食べることを安定させているのだと思った。食料自給率の低い日本において、お米は数少ない自給自足できている大切な食べ物だ。戦後の農業を支えて、そして平和を守り続けてきてくれた沢山の人たちの努力に私は改めて感謝をしたい。
 八月になって晴れの日が続いたおかげで、私の住む地区の田んぼでは今、風にゆれて気持ち良さそうに稲の花が咲いている。これからも、この田んぼの風景が続いてくれる事を強く願う。なぜなら、この田んぼの風景こそが日本の平和の象徴だと思うからだ。

 
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